2011年4月13日水曜日

施設名称が決まるまでの経緯

 旧杉浦邸が、町の施設になって2年目を迎えました。1年目の昨年度、整備活用検討委員10名の活発な協議を経て、病院建物と庭園等の敷地内の整備に引き続き、旧温室建物の改築と参観者用トイレの新築が完了しました。「昭和町風土伝承館・杉浦醫院」という名称もプレオープンに合わせ決定しましたが、決まるまでの経緯を報告し、その趣旨をご理解いただければと思います。
 旧杉浦邸には、母屋や病院、土蔵、納屋、車庫、温室等の建物が現存しており、それぞれが歴史的な建造物であることから、これらの建物を最大限生かして整備を図り、活用しながら保存ししていくことを基本方針に個別の建物の具体的な活用法についても協議、決定していきました。その上で、この全体を総合する施設名称をどうするか?についての協議に進み、「杉浦医院」と共に「杉浦邸」「杉浦健造・三郎記念館」「地方病資料館」「杉浦記念館」等々が候補にあがりました。「杉浦邸では、内容が伝わらない」「健造・三郎の父子名を付けると長すぎて電話対応等に支障がある」「記念館では、根津記念館の二番煎じにも・・」等で、全体名称は「杉浦医院」とすることになりました。合わせて、開業中の病院、医院と区別する意味でも医院の医の字を旧字の「醫」にすることと「地方病資料館」を頭に付けることが決まりました。更に「情報化の時代、昭和町または中巨摩郡等の地名は発信上も必要」との指摘も受け、「昭和町地方病資料館 杉浦醫院」で大筋まとまり、最終判断を教育長・町長に一任することとしました。しかし、委員会終了翌日から「心配」「危惧」を申し出てくれる委員各位の熱心な検討が続きました。それは、「地方病と醫院」が重なることに対する心配でした。「土蔵や納屋の部分は、ギャラリー案が承認され、郷土資料館としての活用も図れるし、母屋部分も町の文化資料館となった時、全体名称としては…」とか「地域交流にも使うには、ちょっと重すぎる感じで…」という危惧で、「事務局でもうひと工夫出来ないか」という提案でもありました。地方病の専門家として委員をお願いしている梶原徳昭氏から「日本住血吸虫症は、山梨では地方病ですが、全国的には風土病が一般的です」という指摘があったのを思い出し、「地方病」を「風土」の一つとしてとらえ、風化させないための施設という意味合いならば、検討委員会の趣旨にも合致し、郷土資料、民俗資料、文化資料は、風土を伝承していく為には必要不可欠ですから、全てを包括出来ると「昭和町風土伝承館 杉浦醫院」案を加えて、教育長に提出した結果、委員各位の総意で熟慮した末の名称が採用されました。これをデザイナー甘利弘樹氏が、ロゴマークと共に図案化し、サイン等に使用しています。